カメヲラボ

主にプログラミングとお勉強全般について書いてます

コード芸人のススメ(2)

  • 変わっていくこと

前回同じエントリ名で文章を書いてから2週間も経っていないのですが、2週間とは言わず文章を書いたその瞬間から、私自身は変わっています。考えも、感じ方も、少しずつ。一つ「知る」たびに、一人と「出会う」たびに。blogに書かれた文章、テレビで読まれるニュース。それらはその瞬間瞬間普遍で、止まったものです。しかし同じ文章でも1度・2度読み返せば、ニュース番組の録画を1度でも見直せば、その度に受け止め方や考え方が変わります。人間は常に変化しています。その変化を受け入れようとするのか、何とかして止めてしまいたいと思うのか。

  • 恥ずかしいこと

以前「恥ずかし思いをしろ」という小見出しで文章を書きました。その後、色々なご意見やご感想を見聞きするうちにふと思ったことがあります。恥ずかしいことというのは、自分自身が感じる「恥ずかしさ」以外に、自分の周りにいる人間が感じる「恥ずかしさ」というものがあります。簡単な例を申しますと、これから暖かくなってくるとよく見かけるようになりますが路上で弾き語りをしている青年。本人は一生懸命にギターをかき鳴らし、声を絞り出して、なかなか上手なこともあればとても聴けたもんじゃないと感じることもあります。まあ技術的なことは抜きにして、見てるこちらがわが何ともむず痒いと申しますか見ていてちょっと恥ずかしいなと感じる経験をされた方は結構いらっしゃるんじゃないかと思います。これの「恥ずかしさ」って、一体どこからやってくるのでしょうか。

まともなプログラマーは、意外と人のコードを馬鹿にしたり無闇に否定したりしないものです。

と述べました。それじゃあコードを晒した本人は結局恥ずかしい思いをあんまりしないんじゃないの?という気もします。じゃあ「恥ずかしさ」って何なのか、というと、いわゆる「まともなプログラマー」という人たちが感じていることではないのかと思います。自分が公開したコードに関して、多少の技術的な、あるいは作法的な指摘を受けることは意外と恥ずかしいことではなくて、自分がある程度経験や実力を積んでそれなりに自信が出てきた頃にふと目にする、酷いコードや当たり前の情報(あえて知識とは言わない)をさも偉そうにひけらかした「○○のプログラミング講座」みたいなサイトを発見したときではないでしょうか。

別にそういったものを見たところで、コードを書いた当人や苦労してサイトを作ったであろう人々をバカにする気になるわけではないのだけれど、何か小恥ずかしい気になってしまいます。おそらくそれは、彼らを少し前の自分に重ね合わせているからなのだと思います。そう感じた瞬間、恥ずかしげも無く酷いコードを晒したり偉そうに語ってみた自分が小恥ずかしいと思われていたということが「恥ずかしい」わけです。自分がいくら成長していても、未来の自分から今の自分を見れば、いつもいつも「恥ずかしい」のです。大切なことは、この「恥ずかしさ」をいつになっても忘れないように、それでいて自分自身は周囲の人間に恥ずかしい思いをさせないように、堂々としていなければならない。そういうことなんじゃないかと思います。

  • ああすればこうなる

私自身も含めて、現代人が侵されている病のひとつです。「ゆとり教育とか言い出すから子供がバカになった」とか、「ゲームばっかりやってるからバカになった」とか、「危険なシュレッダーを作るから子供の指がなくなっちゃった」とか、あんな著名な評論家でもそんなしょーもない議論をするのか!と感じる方も多いかと思います。実際のところ、どんな問題でも原因を一言で言えることなんてそうそう無いはずです。しかし現代人は、何か理由とか、責任を押し付ける存在が欲しいわけです。わかっていながらついつい短絡的な答えを捜してしまう。そこで考えてしまうわけです。「どうすればよくなるのか」と。

  • 役に立たないこと

「ああすればこうなる」という考えから、自分の行動範囲をさらに狭めてしまいます。「ああしたからこうなった」と今の自分や自分が置かれている状況が在る理由を単純な理屈で決めてしまう。行動には自然と「こうすればああなるだろう」という予測を伴ったものでなければ妙に不安になってしまう。予測や合理的な理由がなければ、周囲がその行動を評価してくれないからです。「何のために」かが常に求められる。何のためにコードを書くの?プログラミングなんかして何になるの?本当はどうでも良いくせに、やたらと問う。気にする必要はないんですが、やっぱり周囲がそうだと自分も流されやすい。だから必要なんです。「役に立たないことをしよう」という哲学が!

  • 入った学校が良い学校

まず誤解のないように、最初に述べておかなければなりませんが、私はどの大学でも同じとは思っていません。当然です、名前を書いてお金をたくさん出せば入学できるような大学と東大とか京大が同じなはずはありません。しっかり区別しておかなければなりませんが、それではどの学校も違うのだから自分が理想としている大学に絶対入学しなければならないかというとそうではありません。大学へ入学するには通常入学試験というものがあって、合格すれば入学できますが不合格になれば入学することはできないのですから、絶対に入学できる保証なんてあるわけありませんね。
大切なことは、その大学へ入学したいと思うのなら自分が納得するまで勉強するかどうかです。その上で、結果として希望しない大学へ通うことになってしまった自分をどのように受け止めるか。しっかりと受け止めることができなければ、大学生になってから「やっぱり浪人すればよかった」だとか、「専門学校の方がいいじゃないかな」とかいいながら卒業、就職して、「自分は全く昇進できない。後輩からバカにされる。これはきっと○○大学に行かなかったからだ」などと一生言ってなければなりません。
「そうなってしまった自分」を受け入れられるかどうかというのは至って簡単な話で、いつまでもうだうだ言ってる、いつまでもあちこち居場所を探し回っている自分をカッコイイと思うかそうでないか。良い悪いではありません。カッコイイかカッコ悪いか。
自分が覚悟を決めさせすれば、何ということはありません。よく、「ネットとリアル」という言葉が使われるようになりましたが、もやはそういう時代ではありません。ネットであろうがリアルであろうが、自分の行動無しに出会いもありませんし大した事件もおこりません。

  • 学歴主義?

それでも不安な学生さんに、出身(在籍)大学名が影響することをひとつだけ書いておきます。それは周囲があなたを見るときの評価方法のみです。一般的に、一流大学と呼ばれるような学校であれば、周囲の評価は知らず知らずのうちに減点方式になりがちです。口に出さなくても、『ああ、この人は○○大学生だけど△△も知らないんだな』のような。平均以下の大学に通っていれば、『ああ、□□大学でもこんなすごい人がいるんだな』と、どちらかといえば加点方式になるでしょう。平均的な大学に通えば、大学名が自分の評価に及ぼす影響はもう少し少なくなると思います。
「何だよそれ、結局学歴主義かよ。今時そんなヤツいねぇっつーの!」と思われた方も、潜在的にこのような性質を持っています。大学のことを意識せずにいられるのは、そのような情報がまったく得られない状況に限ってのことです。いくら学校は関係ないと思っていても、大学名を知ってしまった瞬間から、あなた自信が変わってしまうのです。変わらなかったことにしたくて、何も変わっていないように振舞うことはできますが、それは変わってしまった自分を受け入れていないだけのことです。
学歴主義と呼ばれる価値判断方法は、「日本人と外国人」とか、我々が大雑把に分類してぼんやりとした特徴をなんとなくで述べているに過ぎないことで、何ら特別なことではありません。むしろどうしてそこまでムキになって「学歴主義イクナイ!」というのかが不思議でなりません。